東京下流人日記|ワーキングプア脱出をめざす自宅警備員の生活と意見、時事議論、書評など

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TPP論争は、イデオロギー的思い込みに満ちている。

|2015年1月 7日 12:12| 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
『TPP亡国論』 
中野剛志 集英社新書

本書は、TPPに参加しようという日本国内の動きを批判、牽制するものである。しかし、本書を読むと問題は重層化していることがわかる。その多くの層のなかで中野の主張が妥当なところもあるが、経済についての理解不足もある。各論はともかく、まず全体として私が印象づけられたのは、中野の意図とは異なるが、TPPの問題がイデオロギー問題であることが、本書からわかったことである。

世間にはTPP推進派はリベラルで、反対派は保守というイメージがある。そのリベラルとは、戦後民主主義と深くかかわっていることがわかる。それは中野が主張しているわけではないが、そのように読み取れる。そのリベラルの論理的な誤りを中野は突いている。逆にいえば、戦後民主主義には論理的な緩さがあり、それは戦後民主主義がイデオロギーであることによる。

しかし、各論では問題も多い。結局、デフレでは貿易自由化は経済的によくないというのが、この本の中での正論である。しかし、それは、経済理論的にはっきりしない部分もある。リフレ派の主張も含めて、これは経済理論として決着をつけるべきもので、政治的な議論とは別である。

TPPがイデオロギー問題であるとするなら、中野はオールタナティブなイデオロギーを提示すべきだろう。中野は、「経済ナショナリズム」をイデオロギーとして主張するのかもしれない。本書ではそれはおこなっていない。もし、そういうイデオロギーがあるのなら、主張したほうがいい。

戦後イデオロギーを支えるのは、経済学の理念であり、アダム・スミスの「見えない手」である。この考え方が示すのは、経済学は勝ち負けを議論する学問ではないということである貿易すればお互いがメリットを得るのであり、均衡理論は人々の利益追求を肯定する。その意味で、「見えない手」は宗教のようなものである。この宗教にほとんどの経済学者が合意している。。したがって、勝ち負けをいうこと自体が、経済学の前提に対する挑戦である。中野は異様に勝ち負けにこだわっている。それなら、勝ち負けを正当化するイデオロギーが必要だろう。そして、経済学の「見えない手」とイデオロギー闘争をしなければならない。以下、各論について述べるが、そのなかで、なぜ中野が勝ち負けにこだわるのか、見えてくるだろう。



TPP亡国論 (集英社新書)

●貿易はデフレを悪化させる
貿易自由化は、デフレを悪化させると中野はいう(p125-126)。まず、安い製品が輸入されると競合する国産品が淘汰され、国内雇用が失われる。国産米や国産牛がアメリカ産米やアメリカ産牛との競争により駆逐される。たしかに、その通りであるが、中野は貿易自由化のマイナス面のみを記述し、その裏側にあるプラス面を記述しない。貿易自由化により自動車や電化製品、工作機械などの輸出がふえれば、そこに雇用が生まれる。失業した農家の人は(実際の能力は別にして)理論上はそうした企業の雇用により吸収されれば、マイナス面は打ち消される。しかも、そのとき雇用は同じだったとしても、国民は安い米や牛肉を買うことができるので、豊かな生活を謳歌できる。中野はこうしたプラス面を黙して語らない。これは、卑怯な態度といえる。

●財政の効果について
第4章では、財政によってデフレが解消すると主張する。しかし、その議論においてマンデルフレミングの法則にまったく触れていない。グローバル化し、為替が自由化した世界において財政と輸出入を議論するとき、マンデルフレミングの法則に触れないということはありえない。マンデルフレミングは、変動相場制における財政の効果の低下を指摘しており、それを論破しなければ、財政の効果を主張することは、現代の経済学ではできないと思われる。

●重商主義ではないとすれば
「ところが主流派の経済学者たちは、経済学の開祖であるアダム・スミス以来、世界市場は国家間の富の奪い合いであるという見方を否定してきた。世界市場を国家間の利益のぶんどり合いとする考え方は「重商主義」と呼ばれています。重商主義は、貿易黒字を勝ち、貿易赤字を負けとみなします。アダム・スミスの『国富論』は、その重商主義を批判し、世界市場における各国間の取引(貿易)は、自国も貿易相手国も両方とも得をする互恵的な関係であると主張し、自国貿易を擁護したのです。経済学は、世界市場を国家間の経済戦争とみなす思想を否定することで成立したといっても過言ではありません。

中野は、次のようにつづける。「私は貿易政策においても「戦略」が必要であると考えています。そして、TPPが互恵的であるとは考えていません。ですが、私は「貿易黒字は勝ちで、貿易赤字は負け」と考える重商主義は間違っていると思います」P175。
経済学の前提となっている経済的な互恵主義を否定し、なおかつ重商主義をも否定するなら、いかなる考えにもとづいてそう主張するのか、何らかのイデオロギーを表明すべきである。

中野は経済成長することが国益であると主張するかもしれない。しかし、グローバル化した世界において、国益というものはないだろうし、また日本の利益だけを考えること自体が不可能になっている。日本といっても政治上の日本と経済上の日本は違うし、そもそも経済上の日本といってもさまざまな主体の利害は一致することはなく、経済上の日本というものも存在しない。石油が中東の戦略的物資であるというが、日本の国民が石油の高騰で不利益をこうむったとしても、官僚が利益を得ているかもしれない。利害は、単純に日本対外国というものではない。

戦略的互恵関係を否定するために、中野は日中関係を例に出す(p178)。日本が互恵関係を意図しても、中国がそれを逆手に取り、日本がめざす「観光立国」に水を差し、「インフラ輸出」を妨げるという。しかし、この例は中国が資本主義国家として未成熟であり、共産党一党支配だからこそできることである。その意味で、中国の体制は異質である。つまり、中野は異質な例を出して、一般的なものであるように主張している。

穀物が不足すれば、アメリカが輸出を禁止すると中野はいうが、それなら、香港やシンガポールは日本よりもっと困る。中野の心配は杞憂である。穀物が不作なら価格が上がるのは仕方がない。それは需要と供給による経済原理であり、「神の手」であるため、どんな経済学者もそれには逆らえない。したがって、それを矯正しようとは思わない。高い価格を支払えば、穀物は手に入る。それが資本主義というものだ。中野はそうした状況下でも、高い金は払いたくないだろう。石油危機のときも、石油が高騰するのは仕方がない。しかし、過去の石油危機でも石油が途絶したのではない。価格が上がり、経済に悪影響が出たということだ。しかし、日本は第二次石油危機を乗り越え、さらに強い経済をつくり上げた。つまり、資本主義社会であるから、モノの価格が上がるときもあるが、それは仕方がない。そのこと自体は何ら問題ではない。しかし、それを中野はいいつづける。つまり、心配症なのである。

食料を全部自給するのは不可能であり、食料の安保は友好的な貿易関係にある。それがまともな大人の意見である(P195)。しかし、中野は気候変動と水資源の影響が心配だという。ここでも心配症が炸裂する。

P201では「アメリカの戦略に乗せられる日本」と題して、次のようにいう。アメリカの過剰なマネーが商品市場に流れ込み、商品が高騰することで、アメリカの農家の収入がふえ、日本の富が移転するという。中野はこれをアメリカが仕掛けるものであり、日本ははめられるとみなしている。しかし、需要と供給の関係で価格が上がるのは経済原理である。不作によって上がるのと異なり、投機マネーによって上がるとしても、それはつづかない。投機マネーは無限ではないし、適当なところで利食わなければならない。バブルは早晩終了するだろう。しかも、その影響は日本だけでなく、アメリカの消費者にも及ぶのであり、日本だけが負けるという見方は誤りである。これもまた、中野の杞憂である。

●開国について
開国についての議論において、中野は矢内正太郎の論文を批判する(P222)。矢内はTPP参加は日本がアジア太平洋という広い枠組を選ぶのか、東アジアという狭い枠組を選ぶのかという選択と不可分であるという。日本は大戦後、アメリカと同盟し、自由貿易体制に加わることで、経済的に発展した。このなかでときに反米ナショナリズムが噴き出すことがあるが、米国との同盟が重要であり、TPPは日本が飛び乗るべきバスであるという。

ここにTPP問題の本質があらわれていると中野はいう。曰く、日本はすでに自由貿易であり、TPPに不参加であっても、日米同盟を否定するものではないという。これは正論である。

それに対して、中野は次のようにいう。「けれども、私のように社会人になってから一度も本格的な経済成長を体験したことがない世代にとっては、反米感情の原因となっているらしい「驕り」など経験したくてもできないものです。ですから、私には、この論文を読んでもアジア主義や反米感情とTPPの問題が、どういう回路でつながっているのか、まったく理解できません(P226)」。

矢内のいう「驕り」というのはナショナリズムをさすものであり、中野は意味をとらえ損なっている。ただし、この中野の主張に、私は本書でもっとも興味をひかれた。これは若い世代の保守に共通する感覚なのかもしれないと思った。いわゆる戦後民主主義、戦後体制、戦後リベラルといったものをまったく理解しない世代が出現しているという事実である。この戦後的思考は政治・経済・文化・教育と広く日本をおおっている。その考え方を共有しない世代があらわれたということに驚愕した。中野の主張の論理的な部分よりも、この事実こそが重要だと思う。

グローバル化の時代、企業には戦略が必要である。そのとき国家の役割は小さくなるため、国家には戦略というほどのものはいらない。

このように全体的にみて、中野の主張は心配症によるものである。それは、どこから来るのか。おそらく、それは、世界が日本に対して敵対している、だから日本に害を与えるだろう、あるいは日本の利益を奪うだろう、といった強迫観念にもとづく世界観に根ざしている。世界をどうとらえるかは、いろんな見方があるが、中野ほど世界に対して、信頼感を欠いた見方が妥当なのだろうか。そこに違和感を感じた。

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