東京下流人日記|ワーキングプア脱出をめざす自宅警備員の生活と意見、時事議論、書評など

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日本神話と密教思想の興味深い関係。

|2011年4月 6日 01:19| 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
●読み替えられた日本神話
斎藤英喜

日本神話が読み替えられていくようすは、中世が面白い。ムチャな神話がどんどんつくられていく。そこには、仏教の影響もみられる。とくに、私が興味をもったのは、「対立する事象は、本来的には一体である」という密教思想が、そこに作用していることである。

アマテラスが岩屋にこもる原因、それはアマテラスとスサノオの対立にあった。この神々の対立を、仏教教理が説くところの無明(悪・煩悩)と法性(善・菩提)との対立とみなす説も生まれる。そしてそのうえで、このふたつの対立は本質的には「不二」「一如」つまり対立する事象は、本来的には一体のものという一元論の思想=中世天台で作られる「本覚思想」で読み替えていくのである(舩田淳一「中世的天岩戸神話に関する覚書」)。P99-100

しかし中世という時代、大嘗祭よりも大きな意味をもつ儀礼が出現する。「即位灌頂」(即位法)である。その名のとおり、密教のイニシエーション・灌頂儀礼を、天皇が即位するときに行ったというのだ。... 興味深いのは、この即位灌頂執行と中世日本紀の神話世界が結びついているところだ。たとえば、天台系の「即位法門」というテキストでは、即位の法門(教えの意)はスサノオに授けられ、その嫡子のオオナムヂに伝えられ、やがてアマテラスに与えられたという(阿部泰郎「慈童説話の形成」)。日本神話の代表的な神々こそが、天皇の即位灌頂を伝えてきたというのだ。... P101-102

中世の伊勢神宮のテキスト『宝基本記』(『造伊勢二所太神宮宝基本記』)のなかで、ヤマトヒメは、アマテラスが発した託宣をこう解釈していく 私は、今夜アマテラスの託宣を受けた。神主部・物忌(巫女のこと)たちよ、慎んで聞きなさい。人は天下の神物である。人は静謐にしていることが重要だ。そうすることでココとは神が宿る場所となる。心を穢してはならない。神の恵みを受けるには祈?を第一番とすべきだ。神の守護を受けるには、正直が基本の条件である......。だから神を心に宿した人は、天地がまだ分かれない始元の状態を守り、仏教の気配を隔てさえぎらねばならない......P121

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ここで興味深いのは、「天地がまだ分かれない始元の状態」をひとつの理想の境地としていることである。仏教はそれを乱すものと考えられているようだ。この点について著者の説明によれば、「仏教は「始元」の時から離れた分別の心=人間的な価値観を吹き込む教えだから、神に仕える者は仏教を遠ざけねばならぬ」P122という。しかし、さらにいえば、そうした論理は神道の側の論理であり、神道は仏教の教えを取り込みながら、仏教を排除しようとしているという。

室町時代には、衆生の「三毒」を身に受けて、アマテラスが蛇体になったという教えがあったという。

そこからさらに、蛇身のアマテラスという神格を実践的に体得しようとする作用もできあがっていく。蛇身としてのアマテラスを観想する「伊勢灌頂」という行法である(伊藤聡「伊勢灌頂の世界」)。 観想の行法とは、心のなかで仏や神の姿を思い描き、神仏の存在を感得すること。一種のイメージトレーニングだ。おもに密教で発達した作法だが、中世ではそれが神道にも取り込まれた。中世の伊勢神宮では、心を通して神と一体化することを強く説いたが、それはたんなる観念的な教えではなく、観想という行の実践のなかで、神との一体化を果たそうとしたのである。... 蛇体としてのアマテラスを認識するとは、自分たちの祭る神の根源的な姿を知ろうとする知=信の実践である。神の究極、その根源を求めていくという意味では、まさしく神の始まり・起源神話の中世的展開にほかならない。P132-133

明治、戦後からアニメにまで言及しているが、中沢新一について、次のようにいう。

中沢が求めたのは、「宇宙」「表象の体系」「記号」など、構造主義的な解釈から神話を解き放つことであった。まさしく「ポスト構造主義」である。そこで「意識の多層領域をつらぬいて横断していくダイナミックな内的体験」として神話を認識しようとするのだ。「神話」を共同体のなかで語り伝えられる物語ではなく、ある特定の個人の身体の鍛錬によって起こる意識変容時におけるヴィジョンと認識するのである。...じつはそれは、遠く中世の伊勢神宮の内部で繰り広げられた、行者が自らの身体を通して宇宙開闢の瞬間に立ち会う神秘体験の現場=「神道灌頂」「天岩戸灌頂」の行法ともスパークしてくる。P201-202

ところで、興味深いのは、最近の吉本隆明が、中沢新一とシンクロする地点を強調しているところでだ。...吉本は中沢の論述から、瞑想の修行や身体の鍛錬を徹底的に突き詰めたとき、現代の人間たちの五感や身体間隔とは異なった「世界」を感知しうるようになり、現代人にとっては神秘的な超能力や不可思議なことのように見える部分のなかに、人類史の初期=アフリカ的段階の「はるかに根源的でもあり、豊穣でもあるような宗教性」をつかむことが可能であることを示唆していくのである。 ここで「神話」の問題は、人類史の初期=アフリカ的段階という未明の世界の解明というテーマへと展開する。それは高度に発達した資本主義社会が、自らの起源としての歴史(西欧近代)とは異なる地層の「歴史」を探求する動向ともリンクしよう。神話への支店が、同時に「現代」が抱える難題を解き明かす武器とされるのである。P202-203

中沢新一のいっていることが、密教や修験道に近いことがよく理解できた。

神話は「読み替え」られているのか、むしろ「創り替え」られていくというべきではないかと思った。


読み替えられた日本神話 (講談社現代新書)
斎藤 英喜
講談社
2006-12-19

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