東京下流人日記|ワーキングプア脱出をめざす自宅警備員の生活と意見、時事議論、書評など

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二項対立の外部にユートピアがあるのか。

|2011年4月 1日 21:06| 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)
中沢 新一
講談社
2003-04-10

『チベットのモーツァルト』はニューアカデミズムブームの時代の有名な本で、私もずっと昔に2度ほど読もうとしたことがある。そのときは、何をいっているのか読んでも理解できず、2回とも本の最初のほうで挫折した。その挫折本に久しぶりにチャレンジした。今回はなんとかある程度理解できた。それにしても、この本は理解しにくい本である。よく、こんな本が流行したものだ。

中沢がいっていることは、この本の中でも議論されているカスタネダと基本的には同じことである。チベット仏教の修行によって得られる精神の境地がどのようなものかを説明している。その境地をさらに人類学的な知見で説明することが違いといえば、違いである。カスタネダがエスノメソドロジーを批判的していることを知って、へーと思った。

チベット仏教の悟りの境地は、かつてオウム真理教がいっていたこととよく似ている。私は、オウム事件のころロッキング・オンの『CUT』という雑誌に、吉本隆明が書いていたオウムに関する文を偶然、読んだことがある。その吉本が、この『チベットのモーツァルト』の文庫版に解説を寄せている。

というわけで、中沢―吉本―オウム という三角形ができる。

中沢のイメージでは、二項対立とは秩序であって、その外部にユートピアがあると考えているようだ。仏教の修行の境地もそのようなものとして理解されている。それは、文化=反文化という軸に対する、非文化である。非文化にユートピアをみている。それは、丸石についての議論でよくわかる。

このため丸石は生命/非生命という二律背反までのばれて、物質に生命がふきこまれるという観念につきまとう魂すら、追い払っているように、わたしには思われる。結局のところ物質に対する精神の優位性を示すことになる、死んだ木偶に生命を吹き込む魂などよりも、丸石がみずからを開いているのは、もっと無分別ななにものかである。P264

じっさい、非文化は反文化よりもわかりにくい。反文化ならば、それはさまざまなスタイルで制度に挑みかかって、世界をいきいきさせたり、それまで中心化や統一をはかってきた制度に対立して新しい意匠の別種の制度(パラダイム)をうちかためようとすることとして、納得もされるだろう。ところがこまったことに、反文化は自分を文化の周縁であるとか底辺であるとかみなすことによって、中心と周縁、文化と自然といった観念の境界線をつくりだすわけだけれど、文化にはこの反文化を吸いこみ奪っていくところの虚空間がしつらえてあるので、反文化は中心と周縁とからなる世界の全体像を提示するという文化のもくろみを補強することになってしまう。...
ところが、...非文化は、文化=反文化の二元論がこしらえた言説の場が回収しがいのない、一種ののっぺらぼう、空虚、無でしかないのである。観念の言葉のずさんさに回収されたり、なにかの価値などをつなぎとめておくよりも、現実なるものの力と無媒介的に素手で戯れあうことを好み、それによって捏造や水増しされない状態にある真の人間的能力の誕生の場に立ちあい、徹底的な象徴性、徹底的にのっぺらぼうな畸型ぶり、徹底的なユートピアに輝きわたっている――そのようなものとして非文化を考えることができるだろう。文化の装置の表面にさらされる時には、たいがいその周縁部や境界部につつましい場所をあたえられて、文化となにがしかの関係をとりむすぶことになるけれど、文化を拒んだり逆らったりはしないので、たいていの場合、文化をいらだたせることもない。そのかわり、それは根っこやら出入口をたくさん持っていて、根絶やしになんかできやしない。P266-267

二項対立の外部、あるいは前-二項対立の世界をユートピエアのようにいっている。しかし、ほんとうだろうか。二項対立を乗り越えることなんてできないと思う。それは、人間にサルになれというようなものだ。

吉本隆明の解説も読む価値あり。



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