自家発電的オナニー機械、『アンチ・オイディプス』。
ドゥルーズとガタリの名著『アンチ・オイディプス』である。これは大著でもあって、本はかなり分厚く、ページをめくると小さい字がぎっしり並んでいる。装丁もきわめて重厚かつ、繊細である。これらの総合によってかもし出される雰囲気は、いかにも高級であり、凡人の理解を拒むような偉容である。原本は知らないが、これは日本の版元のイメージ戦略だろうか。
内容のほうも、凡人の理解を拒むような難解な表現のオンパレードだ。
最初に出てくる「欲望する機械」という概念は認めうる。しかし、オイディプスについて述べているところは、妄想のかたまりである。オイディプスがすべての欲望をつくっているなどと、誰もいっていないと思う。にもかかわらず、ドゥルーズとガタリはオーストリアの精神分析学者・ライヒまで引き合いに出して、オイディプスがすべての欲望をつくっていると主張し、しかもそれを必死になって否定しているのだ。敵のいないところに勝手に敵をつくり、それを死に物狂いで攻撃している。マッチポンプだ。被害妄想の人が、(実際には存在しない)攻撃を受けてていることを主張し、それに反撃を加えているようなもんだ。自家発電するオナニー機械だ。
ドゥルーズとガタリがみせる、オイディプスについての執着と攻撃は、尋常なものではない。おそらく、西洋人にはオイディプス恐怖症というか、ファルス恐怖症のような傾向があるのだろう。その執着ぶりは、日本人には理解しかねる。日本人の私は、ファルスはこわくない。
だいたい、精神分析を資本主義の分析に使うこと自体、おかしい。精神分析は人間の精神を分析するのに専念すればいいのであって、その分野で頑張っていただければいい。社会科学に応用するなら、その方法論をはっきりさせることが前提となる。社会と精神は違う。パラノイアが封建社会までの変化の少ない社会に対応していて、分裂病が忙しい現代、あるいは資本主義社会に対応しているというのは隠喩としては許す。しかし、比喩以上のものとして、マジで分析ツールとして使うのはいただけない。日本にもマネした人いますけどね。
では、オイディプスの議論を除けば、まともな話なのかといえば、そうではない。「欲望する機械」についての詳しい内容はたんなるイメージで、雲をつかむような話であるばかりか、支離滅裂だ。原始土地機械と専制君主機械と文明資本主義機械という3つのとらえ方は安物の吉本新喜劇みたいなイメージにすぎない。それぞれの機械はコード化と超コード化と脱コード化に対応するとされるが、この超コード化、脱コード化というのもディスカウントショップで買った安物の舞台セットのような陳腐さだ。安物のイメージとしての3つの機械をこれまた安物のイメージとしての3つのコード化で分析しても、何も得られない。イメージは糸の切れたたこのように、どこかに流れていってしまう。書いている本人はイメージの世界に遊んで、楽しそうだが・・・。
ドゥルーズとガタリさんは、脳内がパラノイア機械に占拠されている。ライヒは、リビドーを実在エネルギーと考え、オーガズムを神経症理解の基礎とした理論を打ち立てた。そこからさらに飛躍し、性および生に特有のエネルギーとしてオルゴン・エネルギーを考えた。これは、明らかに妄想です。ライヒと同じようなことをドゥルーズさんとガタリさんはやっています。西洋のファルス恐怖症が生んだ過剰防衛です。

●今週の教訓
装丁と中身は比例しない(装丁はいい)。

アンチ・オイディプス
市倉宏祐 訳
河出書房新社
1986-05
内容のほうも、凡人の理解を拒むような難解な表現のオンパレードだ。
最初に出てくる「欲望する機械」という概念は認めうる。しかし、オイディプスについて述べているところは、妄想のかたまりである。オイディプスがすべての欲望をつくっているなどと、誰もいっていないと思う。にもかかわらず、ドゥルーズとガタリはオーストリアの精神分析学者・ライヒまで引き合いに出して、オイディプスがすべての欲望をつくっていると主張し、しかもそれを必死になって否定しているのだ。敵のいないところに勝手に敵をつくり、それを死に物狂いで攻撃している。マッチポンプだ。被害妄想の人が、(実際には存在しない)攻撃を受けてていることを主張し、それに反撃を加えているようなもんだ。自家発電するオナニー機械だ。
ドゥルーズとガタリがみせる、オイディプスについての執着と攻撃は、尋常なものではない。おそらく、西洋人にはオイディプス恐怖症というか、ファルス恐怖症のような傾向があるのだろう。その執着ぶりは、日本人には理解しかねる。日本人の私は、ファルスはこわくない。
だいたい、精神分析を資本主義の分析に使うこと自体、おかしい。精神分析は人間の精神を分析するのに専念すればいいのであって、その分野で頑張っていただければいい。社会科学に応用するなら、その方法論をはっきりさせることが前提となる。社会と精神は違う。パラノイアが封建社会までの変化の少ない社会に対応していて、分裂病が忙しい現代、あるいは資本主義社会に対応しているというのは隠喩としては許す。しかし、比喩以上のものとして、マジで分析ツールとして使うのはいただけない。日本にもマネした人いますけどね。
では、オイディプスの議論を除けば、まともな話なのかといえば、そうではない。「欲望する機械」についての詳しい内容はたんなるイメージで、雲をつかむような話であるばかりか、支離滅裂だ。原始土地機械と専制君主機械と文明資本主義機械という3つのとらえ方は安物の吉本新喜劇みたいなイメージにすぎない。それぞれの機械はコード化と超コード化と脱コード化に対応するとされるが、この超コード化、脱コード化というのもディスカウントショップで買った安物の舞台セットのような陳腐さだ。安物のイメージとしての3つの機械をこれまた安物のイメージとしての3つのコード化で分析しても、何も得られない。イメージは糸の切れたたこのように、どこかに流れていってしまう。書いている本人はイメージの世界に遊んで、楽しそうだが・・・。
ドゥルーズとガタリさんは、脳内がパラノイア機械に占拠されている。ライヒは、リビドーを実在エネルギーと考え、オーガズムを神経症理解の基礎とした理論を打ち立てた。そこからさらに飛躍し、性および生に特有のエネルギーとしてオルゴン・エネルギーを考えた。これは、明らかに妄想です。ライヒと同じようなことをドゥルーズさんとガタリさんはやっています。西洋のファルス恐怖症が生んだ過剰防衛です。

●今週の教訓
装丁と中身は比例しない(装丁はいい)。

アンチ・オイディプス
市倉宏祐 訳
河出書房新社
1986-05
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