東京下流人日記|ワーキングプア脱出をめざす自宅警備員の生活と意見、時事議論、書評など

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私たちは近代人だったことは一度もない、のか?

|2010年10月 4日 01:12| 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)

科学人類学の分野でもっとも著名であり、重要とされる1冊。

ラトゥールによれば、近代は人間、非人間、なかば抹消された神という3つを同時に生産し、分離したものとして扱い、同時に水面下でハイブリッド(異種混淆)を増殖し続けるという実践によって成り立っている。

人間と非人間の分離、水面上で起きていること、水面下で起きていることの分離、この2つの分離が近代人がどうしても維持しなければならないものである。

近代における自然と社会の分離は「憲法」上の性質である。

では、近代の「憲法」をつくったのは誰か? その問題を考えるために、ラトゥールは17世紀のなかばに起きた、ホッブズとボイルの激論を取り上げる。それは、シェイピンとシェイファーによる著書に依拠し、簡単に要約されて示される。

シェイピンとシェイファーの仕事は、ボイルとホッブズがいかに戦い、科学と社会的コンテクストを、そしてその両者の境界を創造したことを明らかにした。2人の発見は、ホッブズの「科学的著作」を発掘したことにある。ボイルには政治理論もあるという。

その構図は、ボイルに科学を割り当て、ホッブズに政治理論を非対称に割り当てたのではなく、四分法のなかに描いた。

ここでは、ボイルの実験室がひとつの鍵となっている。科学は実験室の中の代理だという。

ここから、ラトゥールはシェイピンとシェイファーを批判的に検討し、ホッブズとボイルの仕事がシンメトリーであると主張する。ホッブスは政治的言説だけを書いたのではなく、ボイルは実験科学科学の言説だけをつくったのではない。2人は近代世界をつくり出した。実験室を媒介としたモノの代理制と社会契約を通じた市民の代理制が永久に交わることのない世界をつくり出した。

P100ではカントやヘーゲルの哲学を、ラトゥールの構図のなかでとらえ直し、P105ではポストモダン派を批判し、ハーバーマスを20世紀のカント主義者とよんで切り捨て、P111では記号論を批判し、P115ではハイデガーを批判する。記号論の批判はきわめて的確である。

本書の内容はむずかしく、十分に理解できたわけではない。巻末の訳者・川村久美子による解題はわかりやすく、理解の助けになる。

latour01.jpg

しかし、ラトゥールの議論は正しいのだろうか。ラトゥールは自然と文化という対比をホッブズとボイルの実践に重ねている。そこに問題がある。自然と文化という二項対立は西洋に独特の価値であり、日本にはない。そうした特殊西洋的な二項対立をホッブズとボイルに重ねるのだが、それがインチキなのだ。

しかも、重ねるほうはホッブズとボイルを社会と科学という対比にしているが、こちらもかなりいい加減だ。社会というのは、哲学のようでもあり、人間のようでもあり、主体のようでもある。それが、文脈のなかで適当な意味を担わされて使われている。そこにも、ごまかしがある。

おそらく、ラトゥールの示した個々の議論、とくに科学的実践についての議論は正しいのだろう。しかし、それを大きな構図のなかに描くとき、失敗している。自然と文化という二項対立にこだわりすぎ。

自然と文化という二項対立は、西洋では古代からある。何も近代に生じたものではない。それは、ボイルとホッブズに関係なく、西洋にある民俗概念である。そこに何やら呪術的な、人をまどわすものがあり、ラトゥールも(悪意はなく)まどわされているのだ。

さらに、準モノというキーになる概念も不明確だし、近代の時間に関する議論もあまりポイントを突いていないように思われる。

大きな構図をもう一度、描き直してほしいものである。

latour02.jpg

虚構の「近代」―科学人類学は警告する
ブルーノ ラトゥール
新評論
2008-07
コメント:対称的でなかった「人間とそれ以外」の分離


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