東京下流人日記|ワーキングプア脱出をめざす自宅警備員の生活と意見、時事議論、書評など

HOME
東京下流人日記

世界の儚さの社会学 吉澤夏子

|2010年7月30日 18:27| 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)

『世界の儚さの社会学 シュッツからルーマンへ』
吉澤夏子 勁草書房2002

読書メモ

第1章 出発点としてのシュッツ

フッサールは19世紀後半に支配的となった実証科学の繁栄による世界観の偏向、つまり客観主義的偏向に批判の眼を向ける。学問の真理とは、現代の実証科学を方法論的に支配している客観性のことであり、このような実証主義的な傾向は、人間にとって決定的な意味をもつ問題、つまり世界と世界に生きる人間の存在がいかなる根源的意味をもちうるかについて考えることのない、単なる実証主義的人間をつくりだした。フッサールによれば学問の危機とは、学問がこの「生」に対する有意義性から遊離したことにある。ガリレイの近代物理学の根本思想には、具体的な世界全体は数学化しうる客観的世界であるという考え方があった。純粋数学は応用数学へと発展し、その発展の上にガリレイは自然の数学化によって、本来は数学化しえない生活世界の内実を捨象するか、あるいは数学化するという歪んだかたちで、近代物理学を成立させた。この近代自然科学の自然とは、もはや生活世界的自然ではない。フッサールはこのように自然科学の自然が生活世界的自然ではないことを暴露し、精神科学の基礎付けをめさした。20 シュッツもまたフッサールと同じ関心のもとに、基礎付けの問題を考えている。

シュッツはまず比喩的に、自然科学の営みが生活世界の形式を数字化していく過程であるなら、社会科学の営みとは生活世界の内実を累計額として展開していく過程にほかならないと考える。それは、社会学においては、ウェーバーの類型学が生活世界の豊かな内容を忘れさせるという危険を常にはらんでいることをあらわす。ウェーバーの方法論を意味世界形成の地盤に引き戻すことが、シュッツの「基礎付け」の仕事である。

シュッツの方法論は、次のようなものである。第一次構成体(社会的世界)が主観的要素をふくんでいるのは明らかである。もし社会科学がほんとうに社会的現実を説明しようとするならば、第二次構成体(科学構成体)も、主観的意味の関係を含まなければならない。それが、ウェーバーが主観的解釈の公準で理解したものであり、社会科学者の間ですでにおこなわれてきたものである。それをシュッツは明文化しようとした。

シュッツの中心的仕事は、ほとんど記述という方法によってなされている。シュッツは現象学的記述をおこなった。そして、記述しながら、なぜ記述するのかを説明することを繰り返した。27

シュッツは他者存在の自明性を哲学的に解明するよりは、むしろ「私と他者たちとの共存」という事実そのものから出発し、その自明性を示していくことが、社会学の「基礎付け」にとって実りある作業だと考えた。こうしてシュッツは人びとの素朴な態度によって生きられている世界に立脚し、「私と他者たちとの共存」という事態を克明に記述していった。したがって、現象学的社会学において問われるのは、「私と他者たちとの共存」という事態がどのように示されているかということである。

私はさまざまな体験を自らのものとなし、生きている。そこには「本質的に直接的な体験」を含む。「本質的に直接的な体験」は、私がそのつど「今を生きている」ことの証である。他者もまた、私と同じように意識の流れ=持続をもち、それは私のものと同じ形式を示している。しかし、他者によって「思念される意味」を私が把握することはできない。

では、「他者を理解する」とはどういうことなのか。ここで「同時性」という概念が登場する。「同時性」とは、私の持続と他者の持続は「同時的であること」を意味している。私と他者がともにそこに居合わせているとき、私は他者の体験をまなざしの中で捉えることができるこのとき、私と他者には純粋な<われわれ関係>という虚的形式が与えられている。純粋な<われわれ関係>があらゆる社会関係に先立って与えられているということ、これが社会的世界を解明する出発点となる。

純粋な<われわれ関係>は「他者を理解する」ことの前提である。この前提にうえに、われわれの日常生活における具体的な<われわれ関係>では、「他者を理解する」という事態がどのように把握されるのか。他者理解はすべて理解する者の自己解釈の作用に基礎づけられている。理解の質には、私と他者がどのような関係にあるのかによってさまざまな段階がある。このような他者理解のメカニズムは、<われわれ関係>にのみ働くわけではない。それはさまざまである。他者理解のメカニズムは、私の「今、ここ」を中心に時間と空間の拡がりのさまざまな濃淡に応じて作動する。43

yoshizawa01.jpg

第2章 転換点としてのシュッツ

A.シュッツが出現するまで、社会学者にとって、「私と他者たちがそこに居合わせともに生活している」という事実は、所与であり、問題になりえなかった。それは、哲学でいう間主観性問題である。シュッツは、この自明の出発点を問うべき問題だと考えた。

しかし、シュッツは間主観性問題をフッサールのように超越論的に問うことはしなかった。シュッツは間主観的世界が行為者にとっても社会学者にとっても、所与であることを一応前提とする立場をとったうえで改めて、自然的態度の内でこの世界をわれわれがいったいどのように経験しているのか、社会的経験とは何か、その基本構造はいかなるものなのかを問い、それを「社会的世界の存在論」というかたちで精細に記述していった。58 しかし、シュッツは超越論的な問いを停止したことは、彼の学的営為に矛盾をもたらした。同時にそのことは、以後の社会理論の展開に対して、大きく2つの方向性を定めたという意味で、社会学におけるひとつの転換を形成した。

シュッツの学は「自然的態度の構成的現象学」と称するが、それは、<超越論的レベル>と<内世界的レベル>に引き裂かれていた。<超越論的レベル>と<内世界的レベル>は相互に排他的である。シュッツが超越論的態度を貫かずに放棄したのは、間主観性の問題を超越論的領域内で解決しようとする問題の立て方自体がおかしい、間主観性は生活世界の所与性として内世界的領域で考察すべき問題であると考えたからである。超越論的領域において、複数の超越論的主体間のコミュニケーションは不可能である。なぜなら、コミュニケーションは自然的世界における出来事を必要としており、複数の超越論的主体の共存ということは無意味だからである。シュッツがそう考えたのは、彼が超越論的世界と自然的世界を別個のものと捉えていたからである。シュッツは「エポケー」という方法の重要性を十分に理解しなかった。

シュッツはこうして間主観性の問題は内世界的な領域に属しているという確信を得、さらに超越論的な問いを停止し、社会的世界の精細な記述をすることが、逆に超越論的世界を基礎づけるという姿勢を打ち出す。シュッツの学は宙ぶらりんであると批判されることもあるが、彼が「自然的態度の構成的現象学」を展開したからこそ、シュッツを出発点とするさまざまな動きが出た。すなわち、シュッツ以後の展開では、間主観性問題それ自体を社会学の中心的主題としてとりあげ、社会学的実践として積極的に展開していく。エスノメソドロジーや会話分析、リアリティ構成論などの展開には、シュッツ以降の転換の直接的な影響が認められる。他方、ルーマンの自己指示的システム理論は、シュッツの<2つのレベル>。が一つであるような世界を志向するものだ。

第4章 世界と<できごと>

フッサールは形而上学としての哲学を徹底的に押し進めようとした真摯な、正統派の哲学者である。彼は、私という超越論的自我から他者という超越論的間主観性を構成しようとしたのではなく、むしろそうした問題の立て方が背理であることを示そうとした。独我論者が想定するような私は実は虚構にすぎない。私にはもともと「他者にとっての他者」という観念が含まれている。そうした事態は隠されている。

ハイデガーは、「存在の意味への問い」をどこまでも突き詰めていった結果、存在そのものが存在の無意味性のうちに消えていくという、きわめて逆説的な事態にぶちあたった。123 ハイデガーがそこに見出したのが<できごと>(性起)であった。しかし、<できごと>は学問や方法の間を摺り抜けていき、彼は学問や方法といったものに懐疑的になっていく。

世界は<できごと>がそのつど指し示すものであり、<できごと>にはそのつどその世界が顕れる。こうした世界観は、ルーマンのものでもある。ルーマンはこうした世界観を「自己指示」という言葉ですくい出した。125

第5章 観察と他者性

観察とは区別の操作である。観察者にとって、AはAでないもの・ではないもの、というかたいでしか、その意味を同定できない。われわれは否定の否定という操作を介してしか、この世界と関わることができない。にもかかわらず、われわれは、世界を経験できる。指示は確かに可能である。だとすれば、指示はつねにその指示の前提となる世界を、指示と同時に指示していなくてはならない。このことをもって、世界は自己指示的に構成されている、と表現している。157
ルーマンはそのことを「パラドックス化と脱パラドックス化」といっている。159
世界の自己指示的な構造はさまざまな局面であらわれるが、行為という<できごと>においてもっとも基底的な自己指示性がみいだされる。163 社会システムの要素は行為(あるいはコミュニケーション)である。社会システムは、社会的行為が互いに互いを指示しあっている意味連関としてとらえられる。システムと行為は同時に生成される。行為はその瞬間のシステムをそのつど規定する。それは、世界の布置が規定されたことにほかならない。われわれはこのことをさして、行為が自己指示的に構成されている、といっている。164
このように、あらゆる営みが自己指示的に構成され、その自己指示性は隠蔽されているというのがルーマンの主張である。

第6章 他者の経験

システムとその要素である<できごと>もまた、どちらかがあらかじめ与えられているわけではない。システムと要素は相互に依存し、同時に生成される。つまり、世界そのものが生成した途端に消滅していくものである。176

加えて、観察にもパラドックスがある。どのような観察者も観察している瞬間は、自分自身を観察することができない。178 観察者が世界に内属しているということが、その世界を不断に変容させている。世界を一挙にまるごと主題化することはできない。ルーマンはこれを盲点とよんでいる。ルーマンにとって、世界はパラドックス化と脱パラドックス化の同時化として把握される。※この問題は、シュッツ以後の社会生成(構成)論的な方向性がすくい取らねばならない重要なテーマである。ここで問題になるのが、他者とは何かということである。

他者はけっして到達しえない絶対の差異である。私と他者との共存はパラドックスである。しかし、世界はけっして完結した閉じられたものではなく、いたるところに<できごと>としての「裂け目」のようなものが穿たれていて、すでに不断に生成されて在る世界へとわれわれを架橋している。掴まえたと思った瞬間、別なものになってしまうのは、世界の構成がすでに不断の世界の経験そのものに繋がれて在るからだ。

私は意識システムであり、環境である他者に直接到達することはできない。しかし、ルーマンはシステムの作動が<できごと>という形式をとっているため、同時性によって環境を把握できるとする。シュッツの他者論においては、同時性において可能となる純粋な<われわれ関係>=「私と他者との共存」という概念がある。ルーマンの場合、この「私と他者との共存」を可能にするものが<できごと>である。<できごと>において時間と意味がはじめて生成されると同時に、それが直線的な時間表象(と間主観的な意味)へとはじめて編み上げられていく。その瞬間の根源的な事態がある。186

P189からは、愛についての論考(大澤真幸の「恋愛の不可能性」に影響を受けたように思われる)があるが、割愛。

●感想
全体としては難解であるが、フッサール、シュッツからルーマンへの道を、すべてを貫く問題意識によって解いていこうとするものである。その問題意識とは何か、間主観性である。いまとなっては、シュッツもフッサールも古くなっている。彼らのそもそもの問題の立て方は、現代からみれば、意味のないものになっていると思われる。ガリレイ以来の科学的な認識を基本に据えて、その科学的な認識ではこぼれてしまうものがあり、それが社会であるというように問題を構成すべきだ。『言葉と物』のフーコーは、そうした立場だと思う。

間主観性の問題はフッサール、シュッツにおいて解決できなかった。それが、ルーマンで解決できたのだろうか。ルーマンのキーワードは<できごと>である。しかし、<できごと>という概念は、はわかりにくい。ルーマンがいうように<できごと>において、私が他者と共存できるとすれば、それは神秘主義、あるいは超越論である。もう少し、私たちに理解できる方法で説明してもらわないと、受け入れることはむずかしい。

ルーマンのいう観察者についても疑問がある。観察が不可能であるという結論自体は妥当である。しかし、その理由が間違っている。観察者が観察できないのは、世界ではなく<できごと>である。<できごと>は人がおこなっているからであるが、それを人は無意識におこなっており、それは認識できない行為であると考えるべきだ。つまり、<できごと>は認識不能であり、ゆえに観察者は<できごと>を観察できない、ということではないか。

世界の儚さの社会学―シュッツからルーマンへ
吉沢 夏子
勁草書房
2002-05
コメント:日常生活を科学する視点


次の記事 → 『オートポイエーシスの世界』山下和也
前の記事 ← 雇用に関するウソ----2ちゃんねるより(2)

コメントする
名前

電子メール

URL

ログイン情報を記憶


自宅警備員
NAME:蝉丸
PROFILE:自宅警備員

RSS