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橋爪大三郎『言語ゲームと社会理論』勁草書房

|2010年6月24日 13:46| 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
橋爪大三郎 『言語ゲームと社会理論 ウィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン』 勁草書房1985

本書は3部構成で、言語ゲームを社会理論に応用する道を考えるものである。まずウィトゲンシュタインの理論を紹介し、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論の応用としてハートの法理論を紹介する。そして、最後に言語ゲームの立場からルーマンの予期理論を批判する。

第1章 〈言語ゲーム〉??ヴィトゲンシュタイン??

ヴィトゲンシュタインの〈言語ゲーム〉のアイデアは、前期の写像理論と対比し、いわばその「反転図形」だと理解するのが、いちばんわかりやすい。10 前期思想では、世界はその構成素である事態に分解でき、事態はそれを織りなすいくつかのもの、あるいは対象に分解できる。これに対応して、言語には要素命題がある。命題が事態をさすことができるのは、両者が写像形式を共有しているからである。こうした言語と世界についての描像により、ヴィトゲンシュタインは満足した。

しかし、彼は二度目の挑戦をはじめる。

どんな命題でも要素命題に分解できるということは、誤った観念である。直示的定義は不可能だと結論する。

では、写像関係でないとすれば、何によって、言語はいみあるものとなるのか?ウィトゲンシュタインは文法を考えた。言語は世界の影ではなく、世界の自立的な一契機である。では、言語に秩序を与えている文法は、どんなあり方をしているのか。

たとえば「歯が痛い」といった各自の内面を相互に伝達しあうような言語は、成立不可能である。私的体験があるのでhなあい。私的体験を報告しあう言語ゲームだけがある。つまり、われわれは言語ゲームに棲まわれる限りで私的経験を持つようになる、と考える。1)

私的体験以外の行為についても同じことがいえる。意図や予想、願望、記憶、命令なども言語によってうみだされる私的なできごとである。これらも言語ゲームの諸規則のなかでだけそうしたものでありうる。

言語はこうして、世界と区別され、世界と別の固有秩序をもつことになった。言語は主体の統制に服するどころか、かえって主体をうみだしさえする。主体よりも、言語ゲームの秩序のほうが、根本的である。

加えて、ウィトゲンシュタインは数学もまたひとつの言語ゲームであるとする。論理学は数学や思考を規定し拘束するようにみえるが、それはみかけだけである。論理学は、あれこれの言語ゲームの内実だ。論理学が言語ゲームを基礎づける資格をもっていない。では、私たちは自分の行動の根拠を示すことはできないのか。われわれのふるまいは、根拠が示されなくても、それ自身が根拠となって、自らを支えている。日常言語は、世界の不完全な写像ではなく、我々の世界そのものである。言語において、人間の生活様式、諸判断は一致する。言語とはまさにこのような一致のことである。

ここで、橋爪は言語ゲームをめぐる困難について述べる。それは、言語ゲームについて積極的な言明を展開できないことである。が、それよりも本当の困難は、〈言語ゲーム〉を客観的・実証的に論ずることがそもそもできない、という点にあるとする。理論的な言説によって、〈言語ゲーム〉を確定することはできない。なぜならば、理論的な言説を基礎づけ、その根拠を与えているのはほかならぬ〈言語ゲーム〉だから。

この困難があるがゆえに、彼のテキストはアンチ・テクストであると橋爪はいう。『哲学探究』そのほかの彼の手稿の断片は〈言語ゲーム〉を記述する超テクストを出現させるための、仮想的な仕掛け=装置であった。橋爪のみるところ、彼の超テクストには次のように書きとめられている。
  1. われわれの営む社会は、挙措動作を含めて、数知れぬ言語ゲームの渦巻である。
  2. 〈言語ゲーム〉(総体)について、対象化的に言及したり、帰納的な結論をひきだしたりすることはできない。なぜなら、そうした試み自体が新たな言語ゲームであり、言及や結論をはみ出してしまうから。
  3. 個々の言語ゲームを記述することは可能である。それは論理学とよばれる。
  4. 論理学が、もとの言語ゲームの規則性を明示的なかたちで呈示する。けれども、それはもとの言語ゲームに根拠を与えるわけでも、規定するわけでもない。
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きわめてわかりやすくウィトゲンシュタインの理論について説明されている。ただ、おそらく橋爪が社会学者であり、社会理論として言語ゲームをとらえているため、偏りがあるように思われる。

ここで、次のような疑問が生じる。言語ゲームを社会理論としてとらえることに、はたして正当性はあるのだろうか。私が気になったのはこの点である。ウィトゲンシュタインは、前期が独我論といわれるように、自分に異常なまでに興味がある人だ。逆にいえば、社会には興味がない人だろう。したがって、彼の理論は認識論であり、形而上学の伝統をひく哲学であることはたしかだが、社会という視点は欠落していると思われる。にもかかわらず、それをそのまま社会理論に応用できるのか、ということだ。

世界を言語ゲームとしてみることが、仮に正しいとしても、それは認識の問題である。社会を言語ゲームとしてみるのはまた異なることだろう。換言すると、社会を説明するには、ウィトゲンシュタインが提示した要素では足りないのではないかと思うということだ。橋爪もまたその点に気づいているのか、別稿で、言語に加えて、性、権力を要素にしている。その要素追加に、ウィトゲンシュタインの理論からの必然性はあるのだろうか。この点について、私たちは検証しなければならないだろう。

もうひとつの疑問点は、〈言語ゲーム〉を客観的・実証的に論ずることができないという点である。ほんとうにできないのだろうか。私たちの日常と言語が一致しているのはたしかであるし、思考と言語も一致しているだろう。しかし、だからといって、言語は私たちを内閉しているのだろうか。言語の外はないと断言できるのか?

なぜ、そういうのかというと、私たちの日常がすべてが言語的日常とは限らない、あるいは私たちの思考がすべて言語的思考であるとは限らないという可能性があると考えるからだ。言語外の思考がないというのなら、それを証明してもらわなければ困る。もちろん、私のほうでは、言語外の思考の存在を証明する必要があるだろう。いま、いったことはたんなる直観であり、真剣に考えたことではない。今後、考えたい。

たとえば、「歯が痛い」という感覚が、ひとつの重要な論点になっている。この点については、最近の脳科学で発見された「ミラーニューロン」が、ウィトゲンシュタインの主張の反証になっているように思われる。ミラーニューロンがあるから、私的体験は共有される。共有されるからこそ、私的体験を伝えたいという欲求が生まれ、それを伝える言語ができたという可能性がある。このミラーニューロンによる私的体験の共有は、前言語的なものである。ミラーニューロンはサルにもあるのだ。私たちが前言語的に私的体験を共有できることはたしかなのである。

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