東京下流人日記|ワーキングプア脱出をめざす自宅警備員の生活と意見、時事議論、書評など

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橋爪大三郎『言語派社会学の原理』 洋泉社

|2010年5月31日 20:15| 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
この本は、社会学の根本のところを考えて、従来の社会のとらえ方では社会の理論はつくれないことを説明した上で、最後に言語派社会学の構想が述べられるというものである。したがって、8割ぐらいはずっとああでもない、こうでもないと議論をすすめていくのだが、結局は過去の否定になっている。残りの2割でどうすべきかが表明される。きわめてわかりやすい言葉で書かれているのだが、にもかかわらず、難解である。中身はむずかしい。

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■第1章 社会科学の、特殊性/普遍性

社会科学は社会から相対的に自立した存在であり、社会を外から眺めて考える。それは、19世紀の西欧社会において、「社会空間の分節可能性とでもいうべき変化」によるものであると橋爪はいう。これにより政治、経済、法、科学などが分かれる。
「このように、1)真理を追求して自己運動する知の領域が、相対的に自立した部分空間として確保されたこと。そして、2)その知が、その他の自立的な部分空間を、別々に考察の対象としたこと。こうして「社会諸科学の19世紀的な配置」が実現した。
この結果、社会科学の実証性が確保されたようにみえる。が、それは、社会をこのように分節させた力を見ないことに等しい。その力とは、権力である。いや、もっと正確にいえば、権力の作動する場所を制度的な権力機構(狭義の権力)のなかに押し込めてしまった、より上位の力である[橋爪16]」。
つまり、社会諸科学を分節させて、すべてが明快になったようにみえるが、じつはそれを分節化させたものが、逆に隠蔽されている。それが権力だというのだ。面白い権力観である。これは正しいように思われるが、じっくり考えてみると、怪しい部分もある。法が権力によってコントロールされていると橋爪はいう。それは正しい。しかし、それ以外のものも、すべて「権力」によって分節化されているのか、証拠は何もない。

社会空間が分節化するのに並行して、社会科学の区分も生じた。ところが、自然科学と異なり、社会科学では理論と実証が分離していない。ここの説明も微妙に疑問であるが、とにかく、そうした問題を乗り越えようというのが、著者の意志である。その意志は、素晴らしい。「それには、従来社会科学が自明視してきた、記述のための基礎的な概念をひとつ残らず疑ってかかり、もっと一般性の高いものに置き換える必要がある[26]」。そして、社会を記述するための諸概念を検討する。

■第2章 社会を一般的に記述するための、諸概念

まず、行為である。社会は行為の集積である。行為?意味?理解は社会現象の不可分の3つの側面である。理解が何であるかを、メカニズムにさかのぼって確定することはできない。でも、理解が何であるかを、われわれはもう理解している。行為を記述する場合、行為をとりまく理解のあり方を含めて記述しないと、行為を記述したことにならない。ここに方法論上の問題が生じる。科学は客観的な方法にもとづき、現象を記述する必要がある。しかし、行為や社会を記述するのに、当事者の理解(主観的な要素)を参照しなければならない。それは、人間が相互理解が可能だからだ。相互理解が可能であるのは、精神の内部構造が同じであるからだ。???とりあえず、こう考えておく。29-34
行為?意味?理解の3つの側面を成り立たせる実質は規則(ルール)である。ある人間の行為が行為であるのは、それが一定の秩序をそなえているからだ。この秩序を、規則(ルール)とよぶ。(社会)規則は(自然)法則と対立する概念であり、ソシュールのいう恣意的な秩序である。規則は、人びとがそれに従っているときにだけ、そこにある。
このような形式(規則)のなかで、もっとも重要なのが、言語だ。34-35

言語は理解によらなければ存在できない。その理解が、数列をモデルにして説明される。事例と規則とは一対一に結びつくものではない。形式の同一性を疑うことはできないし、確かめることもできない。ゆえに、形式の間身体的な同一性をこそ、社会関係の最も根本となる公理とみなすべきなのである。社会の関係を形成するもっとも重要な要素が、形式である。形式の代表格が、言語であるので、言語を含む形式一般のことを<言語>と表記することにしよう。<言語>の作用を、社会理論の基礎にすえる立場を、私は<言語>派とよぶ。<言語>派はまず現象学派ではない。現象学派は、形式が精神機能から独立した客観的なものであることを認めない。つまり、<言語>が社会を構成することを認めない。現象学派は、意味の主観主義である。ゆえに<言語>派は、それと相容れない。つぎにそれは、因果論的なシステム論と異なる。40-41

これが、<言語>派社会学の宣言といえる。
ということは、規則⊃言語、形式⊃言語、であり、なおかつ<言語>⊃言語ということになる。そうすると、言語以外の規則というのも存在していることになるが、それが何か、いまひとつよくわからない。

<言語>派はいまのべたような立場だが、この立場を肉付けして、もう少し具体的に議論を進めていくには、追加仮説が必要になる。追加仮説の立て方にはいろいろありうるだろうが、私は<言語>以外に、社会空間にあとふた通りの作用素を想定しておくべきではないかと考えてみた。それが、性と権力である。41

つまり、社会空間の作用素は、<言語>と性と権力であるというのだ。読んでいて、この点には若干の疑問がある。3つを併置するというのが、いまいちだ。併置じゃないでしょ。もうひとつ疑問に思うのは、3者ともに身体によって説明することだ。1)性...身体と身体とが、直接的に相互作用する領域 2)<言語>...身体と身体とが、形式を介在させて相互作用する領域 3)権力...身体と身体とが、集合的な効果にもとづいて相互作用する領域 という具合である。うーむ。

身体がどのように了解を作りあげるのか。知覚された対象は、構成された世界であり、宇宙のいわば縮小写像になっている。身体上に、宇宙の像である世界、事物の像である事物像、自己身体の像である自己身体像、他者の身体の像である他者身体像が結ばれる。このように秩序ある総体として、世界を(再)構成する(私の)精神の働きが、了解である。
現象学は、世界が構成されたものであることに徹底してこだわる。構成の手続きが明らかになったものだけを、確実に知りえたものとする。しかし、確実に知りえない他者問題が残る。けれども、世界のなかに、了解の内蔵する構成作用によってはその由来を明らかにできないものも、存在する。その典型が、形式だ。形式は私の身体に起源を持たない。こうして、了解を定義し直す。了解とは、身体上に世界(宇宙の縮小写像)を構成し、そのことによって、身体をその外に広がる社会空間と関係づける働きである。
ここで、新しいスタートを切ることができる。理論的考察の対象となるのは社会空間である。しかし、われわれ各自が経験可能なのは、社会的現実だ。社会的現実は、たかだかあるひとつの身体によって切りとられた、社会空間の切片にほかならない。それゆえ、社会空間の記述は"先験的"な性格のもの、必ずしも社会の経験可能なデータ(現実)のみにもとづかない性格のものとなる。

つまり、社会空間を研究するのだが、われわれの経験する社会的現実だけにもとづいて研究できないというのだ。そこには、付加仮説が必要だという。橋爪にとって、それが<言語>であり、性、権力であるという。なるほどね。

ここでいう「形式」というのがいまひとつわからない。規則のいいかえなのだが、これはレヴィ=ストロースのいう「構造」のように思われてしかたがない。

■第3章 社会空間の各部分領域は、どのように定義できるか

つづいて、社会空間の部分領域の定義がおこなわれる。部分領域とは、親族、政治、宗教、経済、法である。親族の説明については、性愛がなぜ排他的になるのか、という説明がよくない。言語哲学的な説明ではなく、悪しき因果論になっている。

政治については、拘束を与える場合にはすべて制度的な手続きによって政治的に決定しようというのが、合法的民主政の根本的なモチーフであると指摘される。それは自己循環であり、法も自己循環していることが指摘される。82

宗教については、神や霊の存在が自明である伝統社会の宗教と、世界宗教が区別される。同じ「信じる」といっても、両者は異なるという。古代宗教、あるいは普遍宗教は複数の民族を統合するためであるという機能主義的な説明もおもなわれる(ひっかかる)。93

法については、ウィトゲンシュタイン、ハートに依拠して述べられる。このように5つの部分領域が説明され、最後に提示されるのは、個別の社会科学では照らし出されない領域が、権力の領域であるということだ。法はルールの体系であり、権力とは合致しない。他方、政治制度は法によって支えられており、政治だけでは完結できない。なおかつ、重要なことは、権力は独自の部分空間をそなえておらず、政治と法の相互配置のなかに隠れている。このことが、権力を論じることをむずかしくしているという128-129。

■第4章 逆説としての権力

この章では、冒頭でウェーバーの権力の定義から、権力のパラドックスについて述べられる。曰く
権力は圧倒的な差異をそなえていること、と同時に権力者と被権力者は同等な人間であるという。しかし、この設定は奇妙である。権力者と被権力者が同等である必要な何もない。近代的な権力についていっているのかもしれないが、それでもおかしい。もしかしたら、それは見えないところで作用しており、同等ではないのかもしれない。そうした議論がなく、いきなり同等であるというのは理解しがたい。
しかし、その後の議論の進展は妥当だ。まず、権力を客観的な実在とみなす議論を「権力者-権力-非権力者の三項図式」とよび、この議論の難点を指摘する。そして、ほとんど不可能な間隙をぬって進むには、「権力者Aが非権力者Bに対して非対称であるのは、Aが『権力をもっている』という事実により、しかも、それだけによる」という命題しかないとして検討する。これはトートロジーである。権力現象を理論的に解明するためには、議論の前提が、問題とする現象と独立(無関係)に立てられなければならない。しかし、先の命題では、権力とは「自己準拠するシステム」である。自己準拠というのは私にはむずかしいが、ルーマンもよく使う用語だ。権力現象を構成する個々の要素が、権力から生まれる。権力は自己を再生産する閉じたシステムである。とすると、権力のシステムを理論的に解明するのはやったいな問題になるという。マルクスもウェーバーもフーコーもこの困難を悩んできたのだ。権力現象の全体が自己準拠するシステムであることを見通しながら、形式的に不合理でない、すっきりした議論をたてる必要がある。138そこから、古典的なホッブスの『リヴァイアサン』を取り上げる。


橋爪は権力論のパラドックスについて順を追ってていねいに解説している。権力論のパラドックスはホッブスの議論のなかに胚胎している。
a)人間個々人はもともと自由な主体であって、自分で自分のことを自由に(権力と無関係に)決定できる。
b)権力は、有無を言わせぬ絶対の強制力であって、個々人の意志と無関係に、自らを貫徹させることができる。
このaとbの背理を「権力のパラドックス・2」(あるいは逆説としての権力)とよんでいる。[橋爪200:151-152]。(権力のパラドックス・1はホッブスが解決した)

「権力のパラドックス・2」は、結局のところ、ふたつの主体(人間と権力と)の背理である。主体とは、簡単に言えば、自己決定システムのことだから、複数の主体が共在すれば、多重決定の背理を避けることができない。これを逃れるには、主体の概念でものをみるのをやめ、人間や権力を単純に自己決定的なシステムをみるのをやめることだ。
自由とはなにか。これに明確な形式的定義を与えることはできない。意志とはなにか。絶対とはなにか。同様に、これらにも明確な定義を与えることもむずかしい。こうした用語を組み合わせて、権力を記述・分析していこうとするプランには限界がある。
これまでの権力論は、権力をめぐる一連のパラドックスを超えることができなかった。それは人間を自由な主体と記述したことに起因する。
人間が、社会に先立って、あるいは権力と無関係に、自由な主体でるということは、それほど確かでない。それよりも、人間が社会を生きていこうとすると、かならずえ権力というものについて、暗黙のうちにかなりのことを理解していること――そういうことのほうが、ずっと確かである。この事実を冷静に見つめるところから、議論を再出発させよう。
近代の社会科学が、どうして権力論を樹立できず、権力を逆説としてしか見られなかったのか。われわれは、その理由を追ってきた。つぎにわれわれは、権力を、これまでと違った前提から考えてみることになる[橋爪200:153-154]。

■第5章 権力はどういう実在なのか

権力のパラドックスに陥らないためには、権力を考えるとき、主体の観念を離れなければならない。ゆえに、主体ではない人間を身体という、とする。そして、権力についての民間社会学(と橋爪がよぶもの)を検討する。1)権力は力である。2)権力は、ある人間(権力者)の自由裁量を経由して働く。3)権力は、物理的実力によって、裏打ちされている。4)権力は、正統性の観念と結びついている。5)権力は、自由と対立する。6)権力は、対面的な二者関係を超えた、もっと広い範囲ではたらく。7)権力は、あらたに権力をうみ出すことができる(派生的でありうる)。8)権力は、被権力者の予期(心的過程)を通じて作用する。以上のような命題が検討される。さらに、権力の局所理論として宮台真司の理論が検討され、彼の理論では個人とは無関係な客観的な権力のあり方を考察しないという問題が指摘される。権力の局所理論はうまくいかないというのが橋爪の回答だ。というのは、個人の体験はつねに、外在する権力についての体験であり、その体験をどんなに集積しても、外在する権力そのものには追いつかないからである。そこで、多くの理論家は、権力を社会的な実在と考えてきた。例:パーソンズは権力をメディアと考える。パーソンズのアイデアをさらにつきつめたのがルーマンである。ルーマンによれば、権力は伝達されるコードである。ルーマンの理論は、権力を選択肢の組み合わせとして考察する点では宮台と同じだが、異なるのは、権力のコードが局所以前に社会の全域にわたって成立することである。しかし、ルーマンの権力論は、「システム進化の仮説」にもとづくものであり、根本のところは仮定にすぎない。ルーマンの議論は、メディアとしての権力の議論が人間社会の基礎的な事実がむすびついていない。以上の議論により、権力を局所的(ローカル)に取り扱うことができないことが明らかになる。では、権力を社会全域的(グローバル)に、しかも非対称的に取り扱う方法はあるのか。権力源泉実体説:マルクスなど。マルクスの権力論は、社会契約説を否定するためのもうひとつの神話である。権力源泉が権力によって秩序づけられるとしても、あるいは権力とは無縁の力学に支配されているとしても、どちらにしても権力源泉はうまく説明できない。第2の説は、ウェーバーのカリスマ論である。カリスマよりも伝統支配のほうが標準型であり、カリスマは例外にすぎない。第3は、社会仮定の偶然によって権力が成立したという説。大澤真幸の第三の審級はこの中に入る。しかし、このロジックは歴史的な現象をトレースしただけであり、ごく限られたテーマにしか当てはまらない。以上、3説はどれも権力の非対称性を解き明かすものではない。問題は、非対称な作用である権力の源泉を、ここ(権力が作用するこの場所=身体)から離れた別の場所に設定しようとしたことにある。問題をとらえなおそう。非対称である権力は、あらゆる場所(身体)において作用している。実体的な権力の源泉は存在しない。権力を考えるために、局所/全域の相互関係を考える必要がある。そうした権力分析の新しい展望を開いたのはフーコーだ。

フーコーの権力分析は、幾何学の用語系によって、知の関係するほとんどあらゆる場所に、権力が作用した証拠を見つけ出し、その時代の権力の全体像を実証的に記述し再構成するという画期的なものであった。※「フーコーの微分幾何学」(注参照) 権力分析の実証の手続きは、個々の言表やその集まりである言説の分布に、偏り(偏奇)があることに注目するところから出発する。分布に偏りがあるなら、そこに何か力や拘束がはたらいた証拠となる。フーコーの方法は客観的ですぐれたものであるが、制約がある。それは過去にはたらいた権力についての「考古学」であるほかないことである。加えて、次のような特徴がある。1)権力についての定義が欠けている。2)権力は、暴力や物理的実力と関連づけられるよりも、ある時代の知の枠組を固定しておく作用と結びつけられる。3)主体は、権力の効果によって生み出されたものとして記述される。4)しかし、権力そのものを直接記述する用語系は与えられない。この権力分析は、不在となった権力であり、生きた権力については分析できない。「系譜学」という名称を与えたのはこのゆえんである。権力と言説は互いに変換しあう関係にある。権力は言説の配置を生産する。フーコーのこのような議論を「権力の痕跡理論」とよぶことができるだろう。このあり方が、現代の権力のあり方と密接な関係があると橋爪はいう。そして、大胆な宣言であるが、「権力の痕跡理論は、不在となった権力に関説する。すなわちそれは権力の理論ではない。いっぽうわれわれは、権力の理論を構成しようとしている。...われわれは、フーコーのその先に進んでいこうとする。」というのだ。高い志である。

私としては、「権力は、権力とは何かという人びとの知を経由して、はたらく210」というところに疑問がある。権力は無意識であるといいたい。知が働くのは、後付けである。無意識のうちに権力が作用し、権力に添って行動し、それを当人は後付けで理解し、それが権力についての知である。

■第6章 〈言語〉派社会学の原理

第6章で自説が構築される。社会に関する知識は実践(プラクティス)としての性質を、色濃く残している。そのことを折り込み、権力について定義を与え、権力の概念を過不足なく掘り起こそうとする。そのために、まず、「状況環」という概念が示される。245 行為が可能であるためには、身体をとりまく有意味な空間が必要である。その有意味な空間は、過去にすでに生起した、さまざまな行為(の効力)によって成り立っている。この効力を、そのさらに背景で、最終的に支えているのが状況環である。そこから、状況ならびに状況環との関連で性、言語、権力の差異を切り分ける。しかし、性、言語はともかく、権力な素朴な追訊と記述は成功しないと橋爪はいう。239 それよりもむしろ、権力の追訊と記述が完結しないで、宙ぶらりんになってしまうほかはない必然のほうを、権力の実態として掲げるほうが、権力の正当な記述である。241 このように考えることで、問題は解決がつく。それは思ったより簡単なことである。
権力の追訊と記述が成功しないもうひとつの理由は、権力が意思を拘束するという構図にある。近代社会では、行為の背後に各人の自由な意思を想定するが、それではそもそも権力という現象が想定できなくなる。行為(選択)が現実的なものであっても、社会を構成するためには、行為ななんらかの制約のもとに置かれていると考えるべきだ。行為は、選択である。しかし、その背景にある状況は選択できない。つねに選択の対象とならないものが状況環である。社会にとって状況環が最後まで残るのは、どんな社会も死者たちを前提にしなければ存在できないからだ。状況環のなかに社会を規定する力があり、そのなかに権力の作用がかくれている。権力はこのように、過去から現在に向かって作用する、間身体的作用である。249
なぜ身体は、相互関係だけから、透明に社会を構成できないのか。それは、不在となった他者たち(死者たち)のすでに動かしがたい行為が、前提となっているから、それらが状況環として、行為の現在を条件づけ規定しているからである。
状況環のなかの権力はどのように身体をとらえるのか。
フーコーにならって、身体の内部の主体性/身体の外部の拘束性(権力)が同時に相互形成されると考える方向で、議論が進められる。橋爪は、血縁と伝統を検討する。そして、権力の制度にとっての決定的な転回点は近代にあるという。近代において、一人ひとりが自由な意思決定の主体であるというかたちで単離され、社会がそうした個々人の集合体であるという想定のもとに再構成される。自由意思を拘束するものは権力線を通って、力を主体におよぼす。しかし、それは権力についてのローカル・ノリッジ(原住民の知識)である。権力はパラドクシカルな仮象のなかの観念であり、思考のなかで整合しない。マルクス主義は、物理的実力が権力源泉であると考えたが、それは権力を否定するモチーフに導かれた知識である。近代の正統な知識は、権力源泉をすべての人びとの合意、すなわち社会契約とする。しかし、この「自己拘束」は単なるひとつの解釈であり、権力はそれ以前から機能し続けている。近代の権力の制度の特徴は、人びとがひとり残らず対等な自由意志をもつことをあくまでも前提としながら、権力の制度を正当化し、再構成していることである。この制度は、それ以前の社会と異なり、この社会のなかでどのように権力を許容し、限定し、有効に活用するかの制度である。その結果、近代の権力の制度は、その外側に、権力がはたらく余地があってはならない(少なくともそれは、望ましくない)と考える。264そこでは、権力は制度的にのみ、すなわち規則(ルール)のかたちでのみ、人びとを拘束する。
そして、すべての事象をつぎのように定義する。性、言語、権力が、分離可能な3つの基本作用素(operator)であり、それ以外の観察可能な現象は、それらの複合において成立している。このようにとらえなおされたものを、社会形象(social figure)とよぶ。268 複雑な社会現象を一連の社会形象から成る全体として解析し、複雑な事象をより単純な社会形象からなる複合として合成する。そうすることで、社会を記述する可能性が開ける。まず、言語は、身体から身体に形式の作用が及んでいる場合、として操作的に定義される。性は、身体から身体に、直接の(非形式的な)作用が及んでいる場合とする。そして、権力については次のように定義される。

[定義]権力:権力とは、身体間で同一性をたもつ、間身体的な拘束作用である。270

権力とは、拘束を及ぼす側の身体が、拘束を及ぼされている側の身体が被るのと同様の拘束を及ぼされている場合であるという。それが、「身体間で同一性をたもつ」ということの意味らしい。つまり、権力のうみだす拘束はこの世界の構造に根ざしている。権力とは、事実→事実→事実という連鎖ではない。なおかつ、意思→意思→意思という連鎖でもない。意思と因果の中間的なあり方だという。拘束は始源を隠されているから、拘束の連鎖において、すべてに同じ拘束の連鎖があらわれる。

これが、本書の結論である。この結論としての権力の定義はむずかしいのだが、私には納得できない部分が残った。橋爪の主張を私なりにまとめると、権力は意思と因果の中間であり、なおかつ同じかたちのものが権力者にも被権力者にも作用し、なおかつそれは状況環という背後から作用し、なおかつ人と人の間で伝達される。しかし、権力はそういうものだろうか。意思と因果の中間であるというのが何を意味するのか、また、そもそも権力は伝達されるものなのか。同じかたちの作用というが、王権の場合、王と平民はまったく非対称であるが、王権は権力のなかに含まれないのか、などなど。権力の典型は王権であるが、橋爪は近代を扱っているため、王権は省いているようだ。しかし、にもかかわらず、血縁について議論する。つまり、考察の際、取り上げられる個別の事象の選び方についても疑問がある。血縁はたしかに連鎖があって、なおかつ同じものが作用する。しかし、人類学では血縁といっても単系出自、双系出自、さらに交叉イトコ婚などの婚姻(連帯関係)、そのほかにも多くの類型がある。それらについてすべて権力が働いているとすれば、その区別は何によってなされるのだろうか。親子関係の連続という事実は存在し、血のつながり、血の共有という観念が存在するが、シュナイダーによってそれは象徴であると結論づけられている。では、権力と象徴の関係はどうなるのか。王権を省くのなら、血縁も省くべきだ。
また、それ以外の事例にも疑問がある。たとえば、伝統である。伝統は連鎖の原因になっているにしても、それは原因というよりも、何らかの結果だろう(たとえば、王権という権力の結果、伝統が生じる)。伝統は、血縁によっても生まれるかもしれない。つまり、血縁と伝統は同列に置くべきではない。さらに、貨幣を伝達される権力の例として考察するが、それは見当違いだ。貨幣は媒介であり、権力ではないだろう。

権力についてパラドックスがあることはたしかだが、そのパラドックスをそのまま定義に入れるのはどうなんだろう。伝達と考えるのではなく、拘束と考えるのでもなく、フーコーが規律とみなしたように、近代の権力は「自縄自縛」と考えたほうがいいのではないか。

さらに、さかのぼると、状況環というのも、わかったようなわからないような説明である。1)死者が状況環を構成するなら、ある種の歴史主義だ。しかし、歴史がいかに人を拘束するのか。それが、権力ということだろうが、それは人を支配する力というよりも、同じ社会を連続させる「秩序」をさしているように思われる。秩序と権力が同じであるのか。おそらく、重なるけれども、同じではないだろう。このあたりは、橋爪の鋭さを感じるとともに、詰めの甘さも感じる。権力と秩序の重なりをきちんと切り分ける必要があり、それをおこなってはじめてちゃんとした権力論になるように思える。さらに、2)サルにも状況はあるだろうが、状況環はないだろう(状況環は文化だから)。では、なぜ人にだけ状況環があるのか、あるいは人にある状況環はサルの状況とどこが違うのか。

いろいろと疑問点がある。しかし、総体としては素晴らしい論考であると思う。私は2度読んだが、わからない部分があるため、また読みたい。そう思わせる重要性が、この本にはある。

さらに、他の橋爪の本も読んでみようという気になった。

本書のなかで触れられているもので、読みたいと思ったもの。
「記号空間=社会」「間身体的作用力論」『橋爪大三郎コレクションI・身体論』
『橋爪大三郎コレクションII・性空間論』
身体、言語(および〈言説〉)、事象、世界、行為などの概念について書いている。

「フーコーの微分幾何学――権力分析の文体論」『仏教の言説戦略』
ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論をモデルに、仏教を運動として記述する「仏教の言説戦略」「大乗教試論」の二本を中核とし、他に貨幣論からの日本論まで、八本の論文を収録。

 


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