東京下流人日記|ワーキングプア脱出をめざす自宅警備員の生活と意見、時事議論、書評など

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大澤真幸『性愛と資本主義』

|2010年1月31日 12:40| 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)

この本は、性愛を資本主義を結びつけて論じるものである。著者の構想を簡単に知るには、結びの言葉を紹介するのがいいだろう。大澤は次のようにいう。

 

ここまで論じてきた主題の一つの核は、「愛」であり、もう一つの核は「資本」である。これらの主題は、通常、まったく異なる言説の領域の中で語られており、互いに交叉することはない。これらが同一の平面に並べられることは、シュールレアリスティックですらあるだろう。

だが、ここまでたどり着いた読者には、これらの主題が一本の線によって貫かれうるということを理解していただけたのではないだろうか。二つの主題を接続する鍵として、私が提案したのは「宗教的なるもの」である。すなわち、「愛」という主題と、「資本」や「貨幣」という主題を結びつけるのは、広義の「信」という主題である。愛は、あらゆる関係性の原型である。その「愛」には、究極的には解消できない原理的な不可能性が刻印されている[244]

 

愛と資本を結びつけるという発想はいいと思う。大澤はシュールリアリスティックですらあるというが、そんなこともない。中沢新一も同じような構想を持っていると思う。私見では、純粋贈与と愛は関係があるし、純粋贈与と市場交換がどう違うのか、あるいはどう同じなのかを議論すれば、愛と市場交換の関係について、一定の所見を得ることができるだろう。

発想はいいのだが、大澤の議論は、各論がいい加減すぎる。

愛の不可能性についても、大澤は個人的な感覚を難解な言葉に言い換えているだけにみえる。愛は不可能であるというが、それは認識レベルを考えるからであって、認識されないレベルにおいて愛は可能である。愛を認識レベルのみで考えるのは、愛を矮小化している。つまり、愛は超越論的な次元にもあるのだ。他方、貨幣はたんなる媒介であって、大澤が考えるほど、特別なものではない。



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